書くような生活も気付くような発見も全く無い
悪童日記の続きも面白くない
手放しで楽しめるようなこと、ないほうが正しい。
書くような生活も気付くような発見も全く無い
悪童日記の続きも面白くない
手放しで楽しめるようなこと、ないほうが正しい。
最近作った曲があって、その詩が気に入ってるので載せる
月の裏側を流れてる川面を眺めている生き物
或いは夢の中で帰りを待っている人々
羽の生えた人も分かっていたよ
踏切の向こう側へも手を振るいじらしい世界
言葉にすれば遠く 緩やかな日々も
君を楽しませるつもりで
抜け殻の日々を気まぐれなビートで
丸まって眠る前に鳴らそう
明日の朝君が目覚めて月が零れ落ちるまで
変わらず夢で待ち合わせて
カーテンを開けてあげるから
遥か昔から君を知っているようだ おかしいか
向こうを見渡せば
笑ってる 僕らが手を振る
細やかな気持ちさ 君に送るのは
花束はいつも 枯れてしまうから
泣き虫な僕ら まるで怪獣みたい
ねぇ 君は元気かい
大阪を去った後で、めっちゃおもしれぇ出会いをしたことをきっかけに書いた歌の歌詞です。きっかけはそれだけど、ペットの歌。
家で飼ってる犬が好きで、だけどきっと自分より先に暮らしの先に行っちゃうよなっていう、産まれたから死ぬみたいな当たり前のことが僕にとって大切なので、その部分が特に色濃く出てる気もします。
1番の歌詞は去年の11月に、2番の歌詞はいま書きました。
関係あるようでないような最近の話
周期的にあるんやけど、よく泣いちゃうみたいな時期。。。
ドラえもんのおばあちゃんの思い出見て泣くとか、ミスチル聴いて泣くとか、どこの袋にそんなに涙溜め込んでんのやってくらい泣く。
いい感じに録音できたらアップしよ
週末、久しぶりにジョンと会話をして、そうそう俺はおまえのそういうところが好きで仲良くなったんだよなって思った。
最近は本音をサクッと言うことに、より抵抗がなくなってきた。何を言っても大しておこられるわけちゃうしな。
悪童日記という小説を読んだときにこんなことに気づいた。対象を批評したり、読後感を言語化しようとする時、自分の知っている言葉と知識を越える表現ができへん。漫画で例えるならコレ、バンドのアルバムで例えるならコレ、みたいな、ついでにその辺のアレも見せとこかっていう、陳腐でエゴを含んだマウント(最低)野郎になってまうし、やっぱり自分を越えれへん。だいぶキツイ。
それでもこの本の、具体的にどこがどう面白かったか言いたいんやけど、一個、ゾクゾクしたシーンがあって。
ルールが語られる場面なんやけど、日記を盗み見る自分(僕のこと)が、まるで屋根裏にいる二人に覗かれているような、本の中の緊張感を自分も疑似体験できる。こういう感覚が1980年代のカルチャーに既にあるんやなっていう、僕にとってはとても価値のある発見です。
「この本オススメやけど、三部作やから気をつけてくれ。旅先の本屋の場所は把握しといたほうが良いと思うよ。一部読み終えた後にすぐに続きが読みたくなる」って悪童日記を貸してくれた友人に言われたけれど、今のところ友人の言う通りに事が進んでいる。
家族で外食に出た日、
酔っ払った父さんが話す言葉を聞いて、思考や態度が自分にそっくりだと気付いた。
僕の話す昔話に賛同してくれる母さん、それでも厳しく接する父さんが、疎ましく恥ずかしく、こそばゆく感じる。いつかの話は、マナーのカケラもないイタリア料理に仕上げる台風一過だった。
いつか高校の頃、家に連絡も入れずに遊びまくって、夜中に帰ってきた日に、テーブルの上に置かれた自分の分の夜飯を見て、部屋で泣いたことがあった。配慮が一つも足りてない自分が情けなく、次の日になっても一言も文句を言わなかった両親のことをしばらく考えていた。それ以来、住む場所が変わろうがこの感覚といつも待ち合わせして、バスに乗り、家に帰った。
そして家にはいつも泣いてる怪獣がいる。君もいつか、覚めない眠りに落ちて、月の裏側を流れる川面を眺め、初めて見る自分の顔を不思議そうに見つめたりするんかな。
よく鳴く怪獣
年末、名古屋でバスを降りた東京の帰りに、同じく名古屋で仕事を納めた地元の友人の車に乗せてもらって一緒に帰った車中で、superfriendsの新譜を聴きながら、自分が将来やりたいバンドの話をした。話しながら、音楽性よりも、自分がそうなりたい気持ちとか聴いてくれた人に(ざっくり)こんなことを思ってほしいとか、そっちのほうが大事でやっぱり音楽性ってのはその為のツールだよなと、話をしながら再確認していた。こうやって書くと、「なんやねん、音楽性大事やんけ」って思われそうやけど、アジカン、ナードマグネット、superfriendsって嫌いな人おらんと思っちゃうよねぇ。。
ってなことを思い出しながらケーキ屋に向かい、ケーキを作っていました。っつーか、お前はそろそろ早く曲作れ。