7/12 思い出せない

いつも、勤める会社の二階のアパートから、いつかの柔軟剤の匂いがする。いつの自分が愛用していたものかは思い出せないけれど、その匂いは毎回右脳の記憶をノックする。今日、ふと思った。映像よりも音よりも味よりも、匂いが一番曖昧な感性なのではないか。例えばこの音はどこか、プラットホームで、通学路の帰り道で、ライブハウスで鳴った音だと情景付きで浮かぶ。味だってどこで食べたか、思い出せる。だけど匂いは、いつどこで嗅いだのかなかなか思い出せない。思えば、視覚を伴う芸術も味覚に訴える芸術もあるけれど、嗅覚へ訴える芸術というのはあまり聞いたことがない。自分単位だが、嗅覚を頼りに人生を切り拓いたことも、一度も無い。
何処かで出会っているハズの香りで、嫌悪感のないむしろ逆の気持ちでありながら、その答えを掘り出せないのは中々にもどかしい。
浮かばない理由として、匂いには所有権や著作権のような、記憶と元の存在を結びつける証明が無いのではないか。音には聴いた場所や作った人を想起させる力があると思う。味には、どこで食べたものか誰が作ったものかを記号として想起させる力がある。厳密に言えば匂いにも、それはある。カレーの匂いを嗅げば、各々がそれぞれのカレーを思い出すし、 タバコの臭いを嗅げばタバコだと気付く。そういう、記号的な側面は他の感覚と同様あるのだけれど、嗅覚は五感の中で一番プライベートな部分に結びついているんじゃないだろうか。生活やプライベートに則ったイタさや傷を含んでいる為、脳みそが部分的に記憶を奪ったのかもしれない。そう考えると嗅覚の娯楽というのが少ないのも、自分としてはうなづける。

だからいつも、匂いを嗅ぐ度に何か忘れ物をしてきたような不安がもれなく追ってくるのかもしれない。そして必ず撃ち抜かれる。






思い出せないものは、そのうち忘れるけれど、出会うたびに、思い出せないという記憶だけを思い出す。
そういう曲を書きました。
warm toといいます。

https://soundcloud.com/grief-work/warm-to

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