グースカ

8/1


東京での疲れが溜まっていたらしく、めっちゃ寝た。昼前まで眠って美味しんぼを見てから洗濯物を畳んでコーヒーを飲みそして本を読んだ。たくさん読んだ気がする。


読みながら、自分がいつから生活に支配されてるのかを反射的に考えてしまった。ただ音楽を聴き、ただ楽器を弾き、ただ活字を追い、ただ料理をする、自分にとっての趣味や生き甲斐を生活に付随することなく行なうことが出来ていないような気がした。いつからなのかはもうどうでもよくて、自分が生活の下敷きになっているような気がしてそれはなんかシャクだった。だからただ本を読み、自分で淹れたコーヒーをただ味わい、ただ活字を追ってみた。そこで気付いたのが、自分にとっては生活を跳ね除けるには未来の自分の為に行動しないことが必要だということだった。それはとても恐ろしく、未来の自分を考えずに生きることは今の自分には出来ない。今だけを手放しで喜び、明日に一分の不安もなくただ目の前の酒を味わう。やはり自分には出来ないだろう。
今は想像でしか手に入らない生活を下敷きにする生活は、今日自分が過ごしたとても有意義な読書の時間とは程遠いクソみたいな時間な気がする。金と人格は反比例であってほしい。



話は変わって、
誰かに向けたり、誰かから向けられる好意はゲームのHPのように加減がある、ということを恥ずかしながら知らなかった(意識したことがなかった)。マックスの値が増えることはあっても、基本的には減るほうが圧倒的に多い。加減というのはそのほとんどがコミュニケーションを通じて精算されるから、なんだかお金のようでもある。


読んでる本の登場人物は15歳だが既にこの理を意識できており、自分が情けなくなった。暮らしを送っていると「なんだか自分だけが擦り減ってる気がする」と思う人ばかりだと思うが、自分のその一人だ。ムカつくことは多い。





大阪は有名な花火大会が今日あった。
恐らく、ただ花火を見るということも人生で一度もしたことがない。自分にとって花火は悔しさの象徴で、人混みの中で見たり、家の中で見たり、或いは見れなかったり。憧れの中の花火は強烈で、期待に満ちていたりするけれど、実際は問題を何も解決してくれない。そんなことを思った。





夜は友達とスーファミをして過ごした。